弾丸列車計画
1930年代に入ると満州事変・日中戦争などによる日本から中国へ向かう輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
この頃鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。
ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。
これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京-大阪間を4時間、東京-下関間を9時間で結ぶ事を計画したものであった。
この計画は翌1940年9月に承認され、建設工事が始められる事になった。
既にこの時点で、新しい幹線を敷設するという事から「新幹線」や「広軌新線」という呼称を内部関係者は用いていた。
「新幹線」の語はここが起源であるとされている。